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【第1章】みずからハードモードな人生を選択してしまった小学生

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普通とはちょっと違った建築士として働く私。
その背景には、共働きの両親の存在と、幼い頃の○○との出会いがありました。
ちゃこの家庭事情
九州の田舎町に生まれた私は公務員一家で育ちました。
父と母、それから親戚にも公務員、またはそれに準じる仕事をしている人が多かったのです。
両親ともにバリバリ働いていたので、同居していた祖母が子どもたちの世話をしてくれていました。
地域とのつながりを大事にする父
父は郵便局員です。
地方の田舎町の場合、郵便局はかなりの地域密着型で、窓口に来るお客さんのことはほぼ全員どこの誰か知っているような世界。
さらに父は忙しく働くかたわら、保育園の役員や小中学校のPTA活動などにも積極的に参加するような人でした。
地域の行事などにも必ず出席していて、校区内で父のことを知らない人はあんまりいなかったのでは?と今でも思います。
キャリアウーマンの母
母は教師で、それでいて仕事人間でした。
あとで聞いた話だと、学校の中ではナンバー2のポジションにいたこともあって、その時はもう目が回るほど忙しかったそう。
確かに私の思い出の中の母は朝早く学校に出かけていって夜遅くまで帰らず、平日に一緒に遊んでもらった記憶は数えるほどしかありません。
いわゆるキャリアウーマンだったんですね。
けれども、寂しいと思ったことは一度もなく、むしろやりがいと責任を持って仕事に打ち込む母の姿を誇らしく感じていました。
共働きの両親の背中を見て育ったら…
専業主婦のお母さんというものをあまり知らなかったので、男性も女性も平等に働くもの、働いていいものという価値観が、子どもの頃から私の中にすっかり出来上がっていました。

そう思うようになったのも自然な流れだったと思います。
そしてこの考えこそが、のちに自分自身を追い詰めることになるのです…。
それに、父も母も安定した職についていたので家族が安心して暮らすのには十分な収入がありました。
子どもの頃に「うちって貧乏?」と思ったことはなく、特に不自由なく過ごさせてもらっていたと思います。
その影響で、子どもながらにも「安定した暮らし」ができるように努力すべきだと思っていましたし、そうしないことは正しくないことだと感じていました。
両親から強く勧められたことは一度もなかったのですが、気付いた頃には自然と私も「公務員になろう」と思っていました。
そう、あの時までは。
お祭りと伝統工芸品と私
小学3年生のある夏の夜。
ごく普通の小学生らしい生活を送っていた私に突然の転機が訪れます。
それは、毎年夏に開かれる地元の大きなお祭りでのことでした。
伝統工芸品との出会い
例年と同じようにお祭りにやってきて、会場をあちこち歩き回っていた私。
確か、1番安くて美味しそうなイカ焼きを物色していたとか、そんなことだったろうと思います。笑
的屋のおじちゃんの威勢の良いかけ声と子どもたちの笑い声。
スピーカーから流れる祭囃子に迷子のアナウンス。
ふと、そうした喧噪と熱気から少し離れて佇む伝統工芸品の存在に気が付きました。
いつもならほとんど気にもしない、目の端には捉えながらも足を止めることはないもの。
吸い寄せられるようにして向かった先で、闇夜に浮かび上がる艶やかなその姿を前にした途端、頭のてっぺんからつま先まで電流が駆け巡りました。
「私はこれを作るために生まれてきたんだ!」
不思議なことにその瞬間、そう確信したんです。
運命の人に出会ったときにビビっとくるという話がありますが、まさにそんな感じ。
こうしてこの夏の日の夜、私の将来の夢が決まりました。
伝統工芸品に恋する小学生
それからは私の普通じゃない小学校生活が始まりました。
寝ても覚めても伝統工芸品のことばかり考える日々。そんな小学生います?笑
図書館や資料館に足繁く通い、伝統工芸品の起源や歴代の工芸士の作風、材料の原産地に至るまで徹底的に調べまくりました。



同じ年代の子どもたち、いやおそらく中高校生まで含めても、あそこまでその伝統工芸品を知り尽くしている子どもは私以外にはいなかったと断言できます。
(そりゃそうだ)
子どもの中では日本一! 大人にも引けを取らないレベルの知識量!
それで、想像してもらえると分かると思うのですが、伝統工芸品ってものすごく地域との関わりが深いんですね。
なので、工芸品について調べていくうちに地元のまち自体についてもどんどん詳しくなっていきました。
まちの風土・歴史・文化などなど…
そうしていつのまにかマイルドヤンキーもびっくりなほどに地元愛が強くなったんです。笑
ただ調べていくうちに気になったことが1つ…
それは、伝統工芸品を作る職人さんの後継者不足が深刻で、このままでは地域の伝統がいつか途絶えてしまうということ。
この現実に強い危機感を抱いた私は、生意気にも「まちのためにも私がなんとかするしかない!」と思うようになっていきました。
中学生になっても衰えない地元愛
伝統工芸品、そして地元への並々ならぬ愛を秘めたまま順調に中学生になったちゃこ。
部活や委員会活動に精を出しつつ、中2にもなるとそろそろ進路を真面目に考える時期がやってきます。
自分で言うのもなんですが成績だけは良かった私!笑
先生方には地域の進学校を進められました。
公務員を目指すなら、それがベターな選択肢だと思います。
でも…
将来は伝統工芸士になって、地域の文化を後世に伝えていきたい!
私にはその目標がありました。使命感と言っても良いかもしれません。
それは、なんとなく公務員を目指していた時よりもずっと強い想いでした。
そしてやってきた中学2年の冬
ついに私は意を決して会いに行きました。



そう、伝統工芸士に!
無謀にも弟子入りの直談判です。
焦っていた私はなんとアポなしで伝統工芸士さんのもとへ向かいました。






伝統工芸品への愛を語る私と、工芸品を作りながらその話を聞いてくださる工芸士さん。
タイミングを見計らい、ついに私は手に汗握りながら勇気を振り絞ってお願いしました。



すると…工芸士さんが手元の作業をとめてこちらに向き直って一言。






弟子に取らない理由
何故弟子に取らないか、工芸士さんは説明してくれました。
ショックと恥ずかしさでほとんど頭に入っこなかったのですが、覚えている限りでまとめるとこんな感じだったと思います。
・10年間の修業期間は収入がないから、安定した職に就いた方が良い。
・伝統工芸士になれたとしても、この仕事だけではやっていけない。
・どうしてもなりたいなら40・50代で始めても遅くない。
そう、実は伝統工芸士になるには10年程の修業が必要だと言われていました。
毎日師匠のもとに通って技術を習得するのですが、その間の収入はほぼなし。
ずっと実家にお世話になるわけにもいかないですから、昼は修業、夜はバイト…と二足の草鞋を履く生活が待っています。
それにせっかく10年間苦労してようやく一人前の伝統工芸士になれたとしても、工芸品の製作1本で生活できるわけではありません。
もともと営利目的の商品ではないので、工芸士の手元に入ってくる収入はごくわずか。
現役の工芸士さんたちでさえ、別の仕事を持っているという実情があるのです。



そういった事情もあり、工芸士さんの言葉は中学生の女の子を想ってのアドバイスだったと今なら分かります。
(というか、突然来たよく知らん女の子をそう簡単に弟子になんかしないということもある。笑)
でも当時の私にとっては、とにかくショック過ぎたんです。
伝統工芸品マニアになったことも、地域の文化を守り伝えたいという気持ちを持っていたこともすべて否定されたような気持ちになってしまいました。



一種の燃え尽き症候群のようになってしまった私はすべてにおいてやる気がなくなってしまったのでした…。
第2章ではそんなちゃこに救いの手が差し伸べられます。








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